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【2009年12月(その2)】

 日中歴史共同研究の第4回全体会合が東京で開かれました。

 近現代史の第3部、つまり戦後日中関係史を除いて、報告書は1カ月以内に公表されることになりました。

 末席ながら外部執筆委員として、近現代史の第1部第3章を担当させていただきました。

 関係各位には、大変にお世話になりました。

 日中歴史共同研究については、拙著『日中歴史認識――「田中上奏文」をめぐる相剋 1927-2010(仮)』(東京大学出版会、2010年2月刊行予定)でも論及する予定です。



【2009年12月】

 国士舘大学比較法制研究所で、「広田弘毅について」と題してお話ししました。

 同校を訪れたのは、拙著『幣原喜重郎と二十世紀の日本―─外交と民主主義』(有斐閣、2006年)の執筆時以来です。

 大学発祥の地となった講堂も見せていただきました。

 また、同校には、拙著『広田弘毅』(中公新書、2008年)で使用した東京裁判での広田弁護記録を所蔵していただけることになりました。

 同校と花井忠弁護人、そして玄洋社の関係を考え合わせると、感慨深いものがあります。



【2009年11月】

 日本国際政治学会が神戸国際会議場で開催されました。

 部会「日中関係の過去と現在」で、「『田中上奏文』の戦前と戦後」と題して報告いたしました。

 司会、討論、フロアーの諸先生方からご意見をたまわり、とても有意義でした。

 今後の研究に活かしていければと思います。

 「田中上奏文」については、いずれ学術書にまとめたいと考えています。



【2009年10月】

 日本政治学会が日本大学法学部で開催され、分科会「新外交と中道政治の展開――芦田均の戦前と戦後」で討論を務めました。

 主に戦前の芦田について、2人の報告者が実証的かつ多面的に論じて下さいました。



【2009年9月】

 拙稿 「大平・金鍾泌会談記録――1962年秋」(『人文研紀要』第65号、2009年9月)が公表されました。

 大平・金鍾泌会談とは、1962年10月20日と11月12日に東京で行われた大平正芳外相と金鍾泌韓国中央情報部長の会談です。

 当時は池田勇人内閣で、金の訪米を挟んで会談は2度開催されました。

 大平と金は、経済協力として無償で3億ドル、長期低利借款2億ドル、民間信用供与1億ドル以上で合意します。大平・金メモと呼ばれるものです。

 拙稿では、大平・金会談に関する8つの文書を紹介しました。



【2009年8月】

 何度か軽井沢に行って来ました。

 といっても避暑のためではなく、諸先生方とともに、ある方にオーラル・ヒストリーを実施しています。

 10数回のインタビューを重ね、ようやく最も活躍された時期の直前まで進んでまいりました。

 いずれ、何らかの形で公にできればとも考えております。



【2009年7月】

 アジア歴史資料センターに新しいコンテンツが加わりました。

 これを機に、多くの方がアジ歴になじんでいただければと思います。



【2009年6月】

 政治家や外交官へのオーラル・ヒストリーを進めています。

 政策形成の過程や人的関係、時代の雰囲気などは、なかなか公文書からは読み取れないところだと思います。

 それだけに、直接にお話を聞くことの意義はありそうです。

 何かの形で後世に残せればと考えています。



【2009年5月】

 拙著『広田弘毅――「悲劇の宰相」の実像』(中公新書、2008年)について、1点だけ触れておきます。

 この本では同じ文献から連続して引用する場合に、煩雑さを避けるべく、直接引用の最初にだけ文中の注を入れてあります。

 新書ですので、すべてに注を入れることは認められないためです。

 例えば、229頁末から230頁にかけて、広田が国際検察局の尋問に対して玄洋社の一員だったと語っています。

 この会話は直前の文献、つまり、『国際検察局(IPS)尋問調書』第28巻からの引用でして、創作でないことはもちろんです。

 『国際検察局(IPS)尋問調書』第28巻の書誌情報については、参考文献291頁上段に記されています。

 関心を示して下さった読者が出典をたどれるように、参考文献はできるだけ丁寧に作成したつもりです。

 このため参考文献は、二段組みで15頁と、新書にしてはかなり長くなってしまいました。

 長い参考文献を掲載して下さった出版社には、とても感謝しております。

 それにしても、あれからもう1年が流れたのですね。



【2009年4月】

 春休みにアメリカとオーストラリアで史料調査を行いました。テーマは、「田中上奏文」です。

 「田中上奏文」については以下の論文を公表してきましたが、戦後を含めて関連の史料をさらに追っています。

    「『田中上奏文』と日中関係」(中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005年)
    「『田中上奏文』をめぐる論争──実存説と偽造説の間」(劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識―─日中対話の試み』東京大学出版会、2006年)
    「満州事変後の日中宣伝外交とアメリカ──『田中上奏文』を中心として」(服部龍二・土田哲夫・後藤春美編『戦間期の東アジア国際政治』中央大学出版部、2007年)

 怪文書だけに調査はなかなか進みませんが、日中関係における歴史認識という問題でもあり、もう少し考えてみたいと思います。



【2009年3月(その3)

 拙稿「日本外交と国際政治」(中央大学総合政策学部編『新たな「政策と文化の融合」──総合政策の挑戦』(中央大学出版部、2009年3月)が刊行されました。

 学部創設15周年に寄せて、いままでの研究を振り返ったものです。



【2009年3月(その2)

 拙稿「宮澤談話に関する一史料」(『中央大学論集』第30号、2009年3月)が公表されました。

 いわゆる第1次歴史教科書問題について、情報公開請求によって得た外務省開示文書を紹介し、若干のインタビューを加味しました。



【2009年3月

 拙稿「戦間期アジア国際政治史」(日本国際政治学会編/李鍾元・田中孝彦・細谷雄一責任編集『日本の国際政治学 第4巻 歴史の中の国際政治』有斐閣、2009年3月)が刊行されました。

 日本国際政治学会の50周年記念論文集に寄せたものです。

 引用文献が多かったため、本文は短くなっています。



【2009年2月(その2)

 拙稿「金大中事件に関する一史料」(『総合政策研究』第17号、2009年2月)が公表されました。

 情報公開請求によって得た外務省開示文書を紹介したものです。

 十分な内容とはとてもいえませんが、史料公開の現状を示すものとして活字にしてみました。



【2009年2月

 拙稿「書評:高光佳絵『アメリカと戦間期の東アジア──アジア・太平洋国際秩序形成と「グローバリゼーション」』」(『歴史学研究』第850号、2009年2月)が公表されました。

 次の2カ所に誤植が残ってしまいました。

・55頁右側書名
 誤:「グローバリゼーション──」
 正:「グローバリゼーション」──

・58頁右側17行目
 誤:対象としたこととの裏返し
 正:対象としたことの裏返し



【2009年1月

 戸部良一・服部龍二・冨塚一彦「論評 『日本外交文書』昭和期U第1部第5巻所収「川越・張群会談」関係文書について」(『外交史料館報』第22号、2008年12月)が公表されました。

 外務省編『日本外交文書』昭和期U第1部第5巻(外務省、2008年)に関する論評会の記録です。

 論評会は、1936年秋の川越・張群会談を中心に行われました。

 川越茂と張群は、それぞれ駐華大使と外交部長でした。

 日本でいえば、広田弘毅内閣、有田八郎外務大臣の時代です。

 この時代を象徴するかのように、日中交渉は決裂します。



【2008年12月(その3)】

 拙著『広田弘毅』(中公新書)の書評などが次の各紙に掲載されました。

    『毎日新聞』12月14日、今年の3冊
    『読売新聞』12月28日、今年の3冊
    『西日本新聞』12月28日、書評

 同書の執筆時には、新聞などで採り上げていただけるとは思っておりませんでした。

 関係各位に深く御礼申し上げます。



【2008年12月(その2)】

 佐道明広・小宮一夫・服部龍二編『人物で読む近代日本外交史──大久保利通から広田弘毅まで』(吉川弘文館、2009年)が刊行されました。

 本書でも、多くの先生方にご指導いただきました。心より御礼申し上げます。

 私の担当は、「時代概説 協調外交から地域主義へ」「幣原喜重郎 霞ヶ関正統派外交から超党派外交へ」「広田弘毅 協和外交の破綻」「コラム 『田中上奏文』と対日イメージ」「エピローグ 日本外交の主役たち」です。

 このうち、「時代概説 協調外交から地域主義へ」後半にある人物のプロフィールは、原則として各執筆者が書いて下さったものです。



【2008年12月

 日中歴史研究者フォーラムで司会者と討論者を務めました。

 ある科研費の集大成ともいうべきもので、多くの方々にお世話になりました。

 こちらにリンクを貼っておきます。



【2008年11月(その2)

 佐道明広・小宮一夫・服部龍二編『人物で読む現代日本外交史──近衛文麿から小泉純一郎まで』(吉川弘文館、2008年)が11月29日の『産経新聞』に紹介されました。

 こちらにリンクを貼っておきます。

 また、麻生首相が同書を八重洲ブックセンターで購入されたようです。

 YOMIURI ONLINEasahi.comのリンクを貼っておきます。



【2008年11月

 佐道明広・小宮一夫・服部龍二編『人物で読む現代日本外交史──近衛文麿から小泉純一郎まで』(吉川弘文館)が刊行されました。

 同書では、大変多くの方にお世話になりましたことに深謝申し上げます。

 私の担当は、「プロローグ 戦中から戦後へ」「時代概説 日中戦争から太平洋戦争へ」「コラム 欧米派と革新派」です。

 このうち、「時代概説 日中戦争から太平洋戦争へ」後半にある人物のプロフィールは、原則として各執筆者が書いて下さったものです。



【2008年10月(その2)

 日本国際政治学会がつくば国際会議場で開催され、次の分科会で討論者を務めました。

    東アジア国際政治史T「戦間期における東アジアを巡る日中米英の対外秩序構想」

 日本、中国、アメリカ、イギリス研究の第一人者によるご報告で、大変に勉強になりました。



【2008年10月

 日本政治学会が関西学院大学で開催され、次の2つの分科会で討論者を務めました。

    「昭和の外交官──有田八郎、重光葵、東郷茂徳」、
    「戦時日本の国民意識──国策グラフ雑誌『写真週報』を通じて」

 後者の主要な成果は、慶應義塾大学出版会からほぼ同名で刊行されています。



【2008年9月

 9月7日の『朝日新聞』と『読売新聞』に、拙著『広田弘毅』(中公新書)の書評が掲載されました。

 関係各位に深謝申し上げます。

 また、同書では、多くの方々にご意見や感想を寄せていただきました。

 そのすべてにお応えすることは到底できませんが、この場を借りて心より御礼申し上げます。



【2008年8月

 拙編『王正廷回顧録 Looking Back and Looking Forward』(中央大学出版部、2008年)が刊行されました。

 王正廷は、外交部長や駐米大使を歴任した中国の著名な外交官です。

 少しでもお役に立つところがあれば幸いです。

 なお、次のところに誤植が残ってしまいました。

・13頁9行目
 誤:chinese
 正:Chinese



【2008年7月

 7月27日の『毎日新聞』「本と人」にインタビュー記事が掲載されました。

 拙著『広田弘毅──「悲劇の宰相」の実像』(中公新書)に関するものです。



【2008年6月(その2)】

 拙著『広田弘毅──「悲劇の宰相」の実像』(中公新書)が刊行されました。

 広田は、1930年代に外相や首相を歴任した外交官で、東京裁判で文官唯一の絞首刑となった人物としても知られています。



【2008年6月

 東アジア近代史学会のシンポジウム「東アジアにけおる日米開戦の視座──政策決定過程の史料分析からの再検討」で司会を務めました。

 司会の不手際で最後の討論が不十分となってしまい、申し訳なく思っています。



【2008年5月(その2)】

 拙稿「読書案内:歴史認識問題」(『歴史と地理』第614号、2008年5月)が公表されました。



【2008年5月

 ゴールデンウィークに中国の青島、威海、済南、曲阜に行ってきました。日中歴史共同研究に参加するためです。

 あとは東京での会議を残すだけとなったようです。



【2008年4月

 『張学良関係文書』(雄松堂)のパンフレットに拙文を寄せました。

 こちらにリンクを貼っておきます。



【2008年3月(その4)

 拙稿「書評:酒井哲哉著『近代日本の国際秩序論』」(『日本歴史』第719号、2008年4月)が公表されました。



【2008年3月(その3)

 五百旗頭真編『日米関係史』有斐閣、2008年3月)が刊行されました。

 同書のうち、「ワシントン体制 1920年代」の一部、「日本の戦争とアメリカの不承認 1930年代」の一部を担当しています。



【2008年3月(その2)


 伊藤信哉編著『外交時報総目次・執筆者索引──戦前編』(日本図書センター)のパンフレットに拙文を寄せました。

 こちらに同書へのリンクを貼っておきます。



【2008年3月】


 日中歴史共同研究の近現代史分科会が鹿児島で開かれました。

 仙巌園という島津家の別邸や、知覧特攻平和会館にも行ってきました。



【2008年2月(その2)】


 拙稿「書評:殷燕軍著『日中講和の研究──戦後日中関係の原点』」(『史学雑誌』第117編第1号、2008年1月)が公表されました。

 同書につきましては、東アジア国際政治史研究会でも取り上げました。



【2008年2月】


 拙稿「日本研究における外国史料の活用」(『日本史研究』第544号、2007年12月)が公表されました。

 京都で行われた例会の報告要旨です。



【2008年1月】

 日中歴史共同研究のため北京に出張してきました。

 こちらに外務省ホームページのリンクを貼っておきます。

 6、7月ごろに最終報告を公表するようですので、そろそろ担当のところを仕上げなければなりません。

 どのようにまとめるべきか、しばらくは思案することになりそうです。



【2007年12月(その2)

 「学界展望」(『年報政治学』2007年-U)が刊行されました。

 ただし、私が直接に担当したのは、ごく一部にすぎません。



【2007年12月】

 拙稿「幣原喜重郎」(伊藤隆・季武嘉也編『近現代日本人物史料情報辞典 3』吉川弘文館、2007年)288頁が刊行されました。

 といっても、辞典項目にすぎないものです。



【2007年11月(その3)】


 日中歴史共同研究の近現代史分科会が九州大学で開かれました。

 会議の内容をふまえて、いずれ報告書が公表されると思います。

 総長室にある孫文と郭沫若の書も拝見いたしました。



【2007年11月(その2)

 シンポジウム「清末中華民国初期の日中関係──協力と対立の時代」が東大駒場で開催されました。

 こちらにリンクを貼っておきます。

 私は、「広田弘毅と中国」と題して報告いたしました。

 広田弘毅については、もう少し深めてみたいと思います。



【2007年11月】

 昨年に引き続き、学園祭で解錠や巡回などを担当いたしました。

 天候にも恵まれ、今年もにぎやかだったようです。



【2007年10月】

 10月30日の『朝日新聞』「歴史は生きている」に、服部龍二・土田哲夫・後藤春美編『戦間期の東アジア国際政治』(中央大学出版部、2007年)が紹介されました。

 といっても、書名だけですが。

 こちらにリンクを貼っておきます。



【2007年9月】

 東洋文庫の現代中国研究資料室で、ホームページを立ちあげて下さったようです。

 こちらにリンクを貼っておきます。



【2007年8月(その2)】

 拙稿「書評:後藤春美著『上海をめぐる日英関係 1925-1932年──日英同盟後の協調と対抗』」(『西洋史学』第225号、2007年8月)が公表されました。

 同書につきましては、東アジア国際政治史研究会でも取り上げました。



【2007年8月】

 拙稿「歴史研究が現代外交にもたらすもの」(『論座』2007年9月号)が公表されました。

 特集「歴史学と現実政治」に寄せたものです。



【2007年7月】

 5月ごろにはしか休講があったため、7月下旬まで授業が行われ、8月上旬まで前期試験が組まれることとなりました。

 今年は短い夏休みになりそうです。


【2007年6月(その2)

 服部龍二・土田哲夫・後藤春美編『戦間期の東アジア国際政治』(中央大学出版部)が出版されました。

 本書は、3年間に及んだ共同研究の成果です。

 その前身となる研究会を2000年に始めてから、8年目にしてようやく最初の論文集を刊行することができました。

 直接にはご執筆いただけなかった方々を含めて、ご協力下さった関係各位に深謝申し上げます。

 共同研究は本書でひとまず幕を下ろしますが、研究会そのものは今後も細々と続けていければと思います。

 私自身は、「満州事変後の日中宣伝外交とアメリカ──『田中上奏文』を中心として」「はしがき」「あとがき」を執筆いたしました。

 詳細については、こちらにリンクを貼っておきます。


【2007年6月】

 川島真・服部龍二編『東アジア国際政治史』(名古屋大学出版会、2007年)が刊行されました。

 同書では、とても多くの方々にお世話になりました。誠にありがとうございました。

 私自身は、第5章「ワシントン体制下の国際政治──1920年代」と、コラム「村山談話」を担当いたしました。

 詳細については、こちらにリンクを貼っておきます。


【2007年5月(その2)

 拙稿「ワシントン会議──海軍軍備制限条約、九ヵ国条約への調印」「幣原喜重郎外相と南京事件──対中政策をめぐる論争」(鳥海靖編『近代日本の転機 明治・大正編』吉川弘文館、2007年)が公表されました。


【2007年5月

 全学的な新入生歓迎スポーツ大会の任に当たりました。

 学生さんたちの表情が、普段とはまた異なって、生き生きとしていたように思えました。


【2007年4月(その2)

 共編にて刊行予定の『東アジア国際政治史』(名古屋大学出版会)と『戦間期の東アジア国際政治』(中央大学出版部)を仕上げています。

 『東アジア国際政治史』は教科書、『戦間期の東アジア国際政治』は論文集です。



【2007年4月

 学会誌『国際政治』の書評委員になりました。


【2007年3月(その2)】

 拙稿「村山談話と外務省──終戦50周年の外交」(田中努編『日本論──グローバル化する日本』中央大学出版部、2007年)が公表されました。

 村山談話の策定過程、政策的意図、諸外国の反応、今日的意義などについて論じてあります。



【2007年3月】

 拙著『幣原喜重郎と二十世紀の日本――外交と民主主義』(有斐閣、2006年)の書評が、3月4日の『日本経済新聞』に掲載されました。


【2007年2月】

 拙著『幣原喜重郎と二十世紀の日本――外交と民主主義』(有斐閣、2006年)の書評が、2月4日の『読売新聞』に掲載されました。


【2007年1月】

 日米関係史の研究合宿に行ってきました。


【2006年12月(その2)】

 拙著『幣原喜重郎と二十世紀の日本――外交と民主主義』(有斐閣、2006年)が刊行されました。

 普段であれば肩の荷を降ろしたように思えるところですが、今回は学生のころからのテーマを終えることでもあり、いささか索漠とした感もあります。


【2006年12月】

 明石康氏を中央大学にお招きして、ご講演いただきました。

 日本が国連に加盟し、重光葵外相が国連で演説してから、今月でちょうど半世紀が過ぎました。


【2006年11月】

 拙稿「幣原喜重郎について──外務省記録とその周辺」(『外交史料館報』第20号、2006年)が刊行されました。

 同稿は、外交史料館で行われた研究会の記録です。

 1936年6月に『大日本外交文書』第1巻が日本国際協会より刊行されてから、今年は70周年に当たります。

 そのためもあり、外務省記録と外交史研究のあり方というようなテーマで、報告のご依頼があったものです。

 あまり抜刷はありませんので、研究会などでお配りしたいと思います。


【2006年10月】

 大磯の旧吉田茂邸にある七賢堂の例祭に行ってきました。

 七賢堂とは、岩倉具視、大久保利通、三条実美、木戸孝允、伊藤博文、西園寺公望、そして吉田茂を祀ったものです。

 「七賢」のうち、「五賢」のご遺族もいらしていました。

 お土産には、吉田の好きだった山田屋のまんじゅうが配られました。


【2006年9月(その2)】

 東アジア国際政治史研究会にて、「満州事変後の日中宣伝外交とアメリカ──『田中上奏文』を中心として」と題して報告しました。


【2006年9月】

 学生さんたちとキャンプに行ってきました。


【2006年8月】

 拙著『幣原喜重郎と二十世紀の日本――外交と民主主義〈仮〉』(有斐閣、2006年刊行予定)を進めています。


【2006年7月】

 拙稿「第1次近衛声明前後の国民政府外交部」(佐藤東洋士・李恩民編『東アジア共同体の可能性──日中関係の再検討』御茶の水書房、2006年7月)が刊行されました。


【2006年6月(その2)】

 「田中上奏文」に関するインタビューが『読売新聞』6月12日夕刊の「夕景時評」に掲載されました。


【2006年6月】

 拙稿「囲繞《田中奏摺》的論争──実際存在説与偽造説之間」(劉傑・三谷博・楊大慶編『超越国境的歴史認識──来自日本学者及海外中国学者的視角』北京:社会科学文献出版社、2006年)が刊行されました。

 「『田中上奏文』をめぐる論争──実存説と偽造説の間」(劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識──日中対話の試み』東京大学出版会、2006年)の中国語訳です。



【2006年5月(その2)】

 拙稿「満州事変前の日ソ関係──日本外交史の側から」(『ロシア史研究』第78号、2006年5月)が刊行されました。

 昨年10月のシンポジウム記録です。あまり抜刷はありませんので、研究会などでお配りしたいと思います。



【2006年5月】

 拙稿「『田中上奏文』をめぐる論争──実存説と偽造説の間」(劉傑・三谷博・楊大慶編『国境を越える歴史認識──日中対話の試み』東京大学出版会、2006年5月)が刊行されました。

 このテーマについては、もう少し深めていきたいと思います。



【2006年4月(その2)】

 京都の日本史研究会にて、「日本研究における外国史料の活用」と題してご報告しました。


【2006年4月】

 中央大学の研究会にて、「村山談話と外務省」と題してご報告しました。


【2006年3月(その5)】

 拙稿「幣原喜重郎講演『外交管見』」(『総合政策研究』第13号、2006年3月)99-112頁が刊行されました。


【2006年3月(その4)】

 拙稿「幣原喜重郎の政策と人脈」(『中央大学論集』第27号、2006年3月)21-57頁が刊行されました。


【2006年3月(その3)】

 早稲田大学で開催されたシンポジウム「国境を越える歴史認識」にて、「『田中上奏文』をめぐる論争──実存説と偽造説の間」を報告しました。

 会議の内容については、東京大学出版会から共著として5月ごろに刊行予定です。


【2006年3月(その2)】

 しばらく海外にて史料を調査しました。


【2006年3月】

 外務省外交史料館にて、「幣原喜重郎について──外務省記録とその周辺」と題してお話ししました。


【2006年2月】

 ようやく期末試験の採点を終えました。なかには受講生が400名をゆうに超える科目もあり、骨の折れる作業でした。


【2006年1月】

 年明けに、共著に関する研究合宿などがありました。

 そのほか、今年は5年ぶりに学術書の刊行を予定しています。



  
2005年12月(その2):
 猪口孝ほか編『国際政治事典』(弘文堂、2005年)に下記の事典項目が掲載されました。

   「9カ国条約」「5カ国条約「山東問題」「幣原外交」「南洋群島委任統治」「パリ平和会議への日本参加」「4カ国条約」「ワシントン会議」「ワシントン体制」



  2005年12月:
 台北の台湾大学を訪問しました。日台研究フォーラムにて、報告するためです。

 自民党の改憲案に関連して、憲法第9条の成立過程や象徴天皇制との関係などについてお話ししました。

 会場には、120名以上が参加されたそうです。こちらに、リンクを貼っておきます。

 会議後には国民党の本部に向かい、統一地方選挙の速報を見届けました。選挙は最大野党・国民党の大勝に終わりました。



  2005年11月(その4):
 東大社研の研究会にて、「近代日本の東アジア国際秩序観─―幣原喜重郎を中心として」と題して、報告しました。



  2005年11月(その3):
 『中央大学学員時報』第432号(2005年11月25日)のコーナー「両談」から依頼を受け、現代政治についてのコラムを寄稿しました。

 同紙は中央大学の学内紙です。こちらに、リンクを貼っておきます。ただし、学外からは、閲覧できないかもしれません。



  2005年11月(その2):
 札幌で開催された日本国際政治学会にて、部会「アジア主義の行方」の司会を務めました。



  2005年11月:
 中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005年)の書評研究会がありました。とても勉強になりました。



 2005年10月(その3):
 ロシア史研究会にて、「満州事変前後の日ソ関係」というシンポジウムが開催されました。
 
 報告者4名、討論者2名のほか、質問も多数あり4時間以上にも及びました。
 
 私は、「満州事変前の日ソ関係─―日本外交史の側から」と題して報告しました。
 
 こちらに、リンクを貼っておきます。レジュメと報告書がアップロードされています。

 なお、『ロシア史研究』第78号に大会特集号として掲載されるそうです。
 


 2005年10月(その2):
 拙稿「幣原喜重郎と戦後政治」(『人文研紀要』第55号、2005年10月)1-37頁、が公表されました。

 幣原の首相期を軸としたものですが、1948年元旦の石橋湛山あて書簡なども、印象に残っています。

 そのほかの史料なども含めて、いずれ書き改めたいと思います。



 2005年10月:
 『読売新聞』10月14日夕刊の「気鋭新鋭」に、研究が紹介されました。



 2005年9月:
 拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)が第4刷になりました。今回も、いくつか手を加えてあります。



 2005年8月(その2):
 中央大学のオープンキャンパスにて、お話しさせていただきました。

 台風の直後にもかかわらず、大勢の高校生や父兄の方が、来て下さったようです。



  2005年8月:
 靖国問題が、論争となっているようです。世論調査などによると、少なからず、首相の参拝に賛成の意見があるようです。重要なのは、賛否そのものよりも、その理由づけだろうと思われます。

 おそらく、参拝賛成論は、3つに分かれるのでしょう。第1に、素朴に戦没者の霊をなぐさめて欲しいというもの。第2に、中国や韓国に批判されて参拝しないようでは、国家としての威信にかかわる、というもの。第3に、A級戦犯という考え方、つまり東京裁判そのもの、ひいてはサンフランシスコ講和を批判するもの。「東京裁判史観」や「自虐史観」の呪縛から解放されるべきだ、という考え方にも通じます。

 これらの議論について、ここでとやかく言うつもりは、ありません。ただし、感情に訴えるような政治の手法は、一時的に求心力を高めても、最終的には成功しないと考えられます。やがて、そのツケは、自国に跳ね返ってくるはずです。

 思えば、近代の日本は、イギリスやアメリカとの協調下で、中国やロシアに対処することを基調としたはずでした。それが、いつの間にか、中国のみならず、イギリスやアメリカとも対峙していきました。

 靖国問題を突き詰めていくと、東京裁判やサンフランシスコ講和に行き着くようです。このため、アジアはもとより、欧米との関係にも、波及しかねないものと危惧されます。

 いずれにせよ、この問題で、首相ごとにブレがあるのは、賢明ではありません。諸外国から言われる以前のことでもあり、国内の、少なくとも党内のコンセンサスを高める必要がありそうです。

 これは、小泉首相の参拝是非というよりも、日本の根幹にかかわってくる問題なのでしょう。次期政権はもとより、ひいては日本の将来を見据えて、できれば諸外国とも共有できるような国民的コンセンサスを練り直していく。戦後60周年を、そんな年にするのは、不可能なのでしょうか。

 なお、サンフランシスコ講和条約の受諾演説において、吉田首相は同条約を、「復讐の条約ではなく、和解と信頼の文書」だとしています。



  2005年7月:
 拙稿"Shidehara Kijuro and the Supra-Party Diplomacy, 1950,"(『中央大学政策文化総合研究所年報』、第8号、2005年6月) pp. 171-187, が発行されました。

 幣原喜重郎の超党派外交に関する史料紹介です。抜刷については、9月ごろに公表予定の2本と合わせてお送りしたいと思います。



  2005年6月:
 拙稿「大学史料館」が、学内の通信誌『草のみどり』(第186号、2005年6月号)に掲載されました。PDF版にて、こちらに公開しておきます。



  2005年5月:
 ある高校生向けの雑誌により、研究室の訪問を受けました。PDF版にて、こちらに公開しておきます。

 出典は、『受験科情報誌Azest』2005年5月号(Z会高校コース会員向け情報誌)です。



  2005年4月:
 拙稿「『田中上奏文』と日中関係」(中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005年)が刊行されました。

 同稿では、下記のように、誤植が残ってしまいました。

      483頁7行目 (誤)情報局 (正)情報部

 申し訳ないことに、抜刷はございません。その続編を準備しています。



  2005年3月:
 若枝一憲述、服部龍二・瀬戸口勲編「新ODA大綱の策定」(『総合政策研究』、第12号、2005年)が活字になりました。

 外務省の方に、2003年の新ODA大綱について、語っていただいたものです。本当は、その後の質疑応答が面白かったのですが、諸般の事情により、省略となりました。

 私への抜刷の割り当ては、あまりありません。研究会などで、少しはお配りしました。



  2005年2月:
 拙稿「幣原喜重郎の戦前と戦後―東京裁判を超えて―」(『中央大学論集』、第26号、2005年、1-15頁)が公表されました。

 最晩年の幣原について、東京裁判とのかかわり、外務省の保全、対外認識、超党派外交などを論じたものです。



  2005年1月:
 冬休みをアメリカですごしました。

 成田空港では、アメリカ便について、「鍵をかけたまま荷物を預けた場合には、中身を確認するため、壊されるかもしれない」と言われました。アメリカの入管では、ビザなしでも指紋と写真をとられるなど、かなり厳しくなっています。

 帰国してからは、中央大学主催のシンポジウムにて、討論者を務めさせていただきました。



  2004年12月:
 来年度より、博士後期課程も担当させていただくことになりました。学部の授業担当も増えますので、かなり忙しくなりそうです。



  2004年11月:
 拙稿「盧溝橋事件における国民政府外交部と冀察政務委員会―外交部档案『盧溝橋事件―本部與冀察当局商洽情形―』を中心に―」(『人文研紀要』、第51号、2004年、1-35頁)が公表されました。

 5年前に台湾の外交部で入手した史料を紹介したものです。随分と時間を費やしてしまいました。



  2004年10月:
 数年ぶりに日本国際政治学会に出席して来ました。今回は、歴史系の報告を中心に、全日程を拝聴しました。やはり学会からは、刺激を受けることが多いようです。

 本来であれば、こうした主要な学会には、継続的に出席したいところです。が、なかなか時間がとれなくなりつつあります。




  2004年9月:
 東アジア国際政治史研究会については、メールでのご案内となりました。



  2004年8月:
 いくつかの企画に合わせた論文や報告に追われています。このまま今年の夏も終わってしまうのかと、いささか焦り気味です。

 お誘いのあることはありがたいですし、勉強にもなります。ただ、本来の研究がおろそかになってしまっては、やはり本末転倒でしょう。

 とはいえ、この種の依頼というのは、断りにくい筋から入ってくるもののようです。



  2004年7月:
 学部1、2年のゼミが、『世界週報』第85巻第28号(2004年7月27日)に紹介されました。うれしいようでもあり、気恥ずかしいようでもあります。

  以下、ゼミ生の方へ:同誌を5部ほど学部事務室に預けてあります。必要な方は取りに行って下さい。先着5名までは現物、それ以降は複写となります。




  2004年6月:
 長らく外交史を研究していると、しばしば、現在の国際情勢が過去と二重写しにみえます。

 アメリカ外交についていえば、ブッシュ政権の失速と、来るべき大統領選は、どことなく1970年代を彷彿とさせるかもしれません。当時のアメリカはベトナム戦争でつまずき、ニクソン政権下で、アジアにおけるプレゼンスを低下させ始めていました。

 さらに、1970年代の後半になると、在韓米軍の撤退までをも唱えるカーター大統領が登場してきます。日本がアメリカに見捨てられる恐怖を感じ取った頃でもあります。

 一方、発展の目覚ましい中国については、1920年代の後半とオーバーラップするところがあるかもしれません。当時の中国は、少しずつ不平等条約体制を脱しつつあり、アメリカはこれを好意的にみていました。日本は対米英関係に見切りをつけ、満州事変に突入していきます。

 その教訓を一言でいうならば、日本は過剰に反応しすぎたのでしょう。格下とみなしていた途上国が台頭するとき、関係国は必要以上に反応してしまうのでしょうか。現在の中国脅威論をみても、日本はアジアとの横並びという発想に慣れていないのかもしれません。

 対米関係を視野に入れつつ、大国化する中国にいかに対処するのか。その外交的課題は、何も今に始まったことではないのですね。

 もっとも、このように考えてしまうこと自体、歴史の誤用という危険性を含むものでもありますが。



  2004年5月:
 一昨年のワールドカップ以降でしょうか。韓国ブームと呼ばれて、久しいようです。一昔前であれば、芸能人やスポーツ選手が頻繁に日韓を行き来することなど、想像もできませんでした。

 それにしても、大学関係者としては、気掛かりなことがあります。有力な大学の図書館でも、韓国語の文献があまり所蔵されていないことです。また、東洋史やアジア政治論といった講座では、どうしても中国が軸になるようです。

 韓国ブームが上滑りにならなければよいのですが。



  2004年4月:
  拙著『国際政治史の道標―実践的入門―』(中央大学出版部、2004年)が刊行されました。学界動向や史料紹介、書評、文献目録などの論文を集めたものです。

 価格については、可能な限り抑えて、2,200円としました。その代わり、著者献本が極めて少なくなってしまいました。かなり買い足しましたが、お配りできる範囲は限られてしまいます。

 今回は原則として、拙編『満州事変と重光駐華公使報告書―外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて―』(日本図書センター、2002年)の刊行後に御著書を送っていただいた方に謹呈させていただきました。

 この種の著作を刊行するのも、最初で最後になりそうです。



  2004年3月下旬:
  杭州の浙江大学にて、歴史認識をめぐる会議に出席してきました。

 会議終了後には、紹興に寄りました。紹興酒の他に、魯迅の生誕地として知られるところです。

 台湾の総統選については、多くの方が、香港発の衛星放送などでフォローしているようでした。



  2004年3月中旬:
  拙稿「明治大正期の幣原喜重郎」(『中央大学論集』、第25号、2004年)が刊行されました。

  通史的な記述と、平易な文体を試みようとしてあります。



  2004年3月上旬:
 (承前)とりわけ書評では、専門から遠いような場合には、大いにためらうものです。せっかくの労作に対して、間違ったことを書いてしまわないかと思えば、拝辞したくもなってしまいます。

 他方で、誰も書評を執筆しないと、そのまま作品が埋もれてしまう可能性もあります。一般に著者としては、批判されるよりも、無視される方がつらいのかもしれません。



  2004年2月下旬:
  3月末締め切りの原稿が3本ほど重なってしまい、焦り気味です。

 内訳は、共著、史料紹介、書評となっています。筆が荒れてこないかと危惧しています。(つづく)



  2004年2月中旬:
  拙著『国際政治史の道標―実践的入門―』(中央大学出版部、2004年)の再校を終えました。学界動向や史料調査などに関する拙稿をまとめたものです。

 このような形で刊行することには、ためらいの方が大きい、というのが率直なところです。とはいえ、少しでもお役に立つところがあればと愚考しています。4月上旬に刊行予定です。



  2004年2月上旬:
  長く生きていると、意外なこともあるものです。雑誌『外交フォーラム』のゼミ訪問取材を受けました。ついつい余計なことを話していなければよいのですが。

 同誌は2月8日に発売だそうです。いかに少人数の(マイナーな?)ゼミかということが、思わぬ形で発覚しそうです。



  2004年1月下旬:
 (承前)書店で本を買うのであれば、まず著者の略歴を一瞥し、さらに目次やあとがき、文献目録などで本の成り立ちを確認するはずです。

 これに比べれば、ホームページでは、ほとんどの場合が匿名であり、リソースも検証不能となっています。そのようなホームページに依拠することは、あまりにもリスクが高すぎるのです。

 しかし、これがなかなか理解してもらえないようです。その一因は、どうやら読書の習慣が薄れてきたことにもありそうです。



  2004年1月中旬:
 (承前)現代人は、過去を直接に知ることができません。そうである以上、何かを媒介として学ぶことになります。現代人が理解している歴史とは、すべて何らかのフィルターを通したものです。

 E・H・カーなどの指摘を待つまでもなく、歴史の記述には判断が含まれています。そこで、「歴史書を読む場合には、まず歴史家を研究せよ」ということになるわけです。同様なことは、例えば、政治理論などにもあてはまるでしょう。(つづく)



  2004年1月上旬:
  年末年始には関西に出張するなど、いろいろな方とお会いすることができました。大学の教員が集まると、まれに学生のインターネット使用が話題になります。

 つまり、ゼミやレポートの課題を本で調べるのではなく、怪しげなホームページを参照して来ることが多くなっているようなのです。

 罪の意識がないだけに、なぜそれが好ましくないのかをご説明することから始めなくてはなりません。これがなかなか容易ではないようです。(つづく)



  2003年12月下旬:
  早いもので、2003年も暮れようとしています。今年最大の事件といえば、やはりイラク戦争でしょう。イラク復興の難航を目の当たりにして、ようやくブッシュ政権も国際協調の必要性を悟りつつあるのでしょうか。

 他方で、北朝鮮問題をめぐる日本外交の蹉跌も明らかになりつつあるようです。その遠因をたどっていくと、どうやら昨年の小泉訪朝時に、アメリカとの提携を軽視していたことに行き着くようです。

 日本はもとより、唯一の超大国といわれるアメリカですら、一国だけでやれることは限られている。そんな当たり前のことを思い出させてくれたのが、2003年だったのかもしれません。



  2003年12月中旬:
  今年刊行された本から、3冊ほど挙げてみたいと思います。

 研究書としては、ヴィクター・D・チャ(船橋洋一監訳、倉田秀也訳)『米日韓 反目を超えた提携』(有斐閣、2003年)が新鮮でした。日韓「疑似同盟」というモデルは、これから定着していくのでしょうか。

 通史では、井上寿一『日本外交史講義』(岩波書店、2003年)を得ました。単著による日本外交史の通史としては、細谷千博『日本外交の軌跡』(日本放送出版協会、1993年)以来となります。平易な文体ながら、最新の成果を盛り込もうという意気込みが伝わってきます。戦後が次第に長くなるにつれて、戦前からの通史は今後なかなか現れなくなるのでしょう。

 自伝や評伝の類では、原彬久編『岸信介証言録』(毎日新聞社、2003年)が印象に残っています。



  2003年12月上旬:
 (承前)これらの選択肢は、一長一短です。第1の選択では、学界に地位を得たとしても、専門家しか読まないような本を一生書き続けることになります。第2の選択では、基礎研究をおろそかにする危険性もありますが、社会的な名声がそれを補ってくれます。

 どんなに地味で生真面目な学者でも、第2の選択で読者層を拡げたいという誘惑に、一度は駆られるのではないでしょうか。しかしながら、長く読み継がれる名著というのは、やはり第1の選択から生まれるのではないかという気もします。

 真の悲劇は、第1の選択をしたつもりでも、一定の水準を保てなくなることかもしれません。



  2003年11月下旬:
  少し前のことになりますが、ある高名な政治学者が6月号の『書斎の窓』に興味深い御玉稿を寄せています。

 それによりますと、研究者には「30代の危機」があるといいます。すなわち、日本の学界には研究者を一定の領域に閉じこめるようなメカニズムがあるため、新しい分野に挑戦する機会を逸してしまいがちだというのです。そのため、30代に訪れる転機を逃さず、新しい課題に移るべきだと記されています。

 実感としては、これとは別に、いわば「30代の岐路」ともいうべき2つの選択肢があるように思えます。

 第1の選択肢はいうまでもなく、今まで通りに質の高い論文だけを追求することです。第2の選択肢は、これに飽きたらず啓蒙的な文章を増やし、時にはマスコミにも登場することでしょう。(つづく) 



  2003年11月中旬:
  外務省の方を授業にお招きし、新ODA大綱の策定について、講演していただきました。

 また、国T(外務省)合格者と外務省専門職合格者の方々にも、お話ししてもらいました。やはり、この種の試験には、コツのようなものがあるようです。

 なお、私自身はこの間、中央大学国際関係研究会にて報告させていただきました。



  2003年11月上旬:
  某局のテレビ番組『白い巨塔』が話題になっているようです。一見すると、複雑な医学界の人間模様を描いたようにもみえます。

 しかし、基本的な構図は、むしろ単純なようです。つまり、人間味のある学者肌と非情なる野心家という2人の医者の葛藤というものです。ベタな設定といってもよいでしょう。どちらが医学部に残るかは、自明に思えます。

 それはともかく、大衆を惹き付けるには、こうした分かりやすい構図が不可欠なのかもしれません。



  2003年10月下旬:
  総選挙の足音が近づいてきました。あえて命名するならば、「小泉・安部」対「菅・小沢」の「二枚看板対決」選挙とでもいうのでしょうか。とりわけ、安部幹事長の抜擢が注目されています。

 しかしながら、そのことは、人事が硬直したことの裏返しでもあります。本来、すべての主要な人事は実力主義であるべきです。かつて吉田茂が佐藤栄作や池田勇人を抜擢した際に、佐藤や池田は駆け出しの政治家にすぎませんでした。追放解除された岸信介の出世も非常に早いものでした。ちなみに、54歳で首相となった田中角栄は、中曽根康弘と同じ1918年生まれでした。中曽根と同様に引退勧告を受けている宮沢喜一は1919年生まれです。

 万年与党の人事というものは、実力や政策ではなく、当選回数至上主義に陥りやすいものです。そのため、当選回数の多い二世が幅を利かせることになります。このような悪癖が定着すれば、政治家は小粒になっていくでしょう。
 
 そのことは同時に、政治家への参入が難しくなることを意味しています。こうなると、政界以外からの立候補は、タレントや元スポーツ選手などに限られてしまいます。

 果たして、一党優位制は今後も続くのでしょうか。それとも、政権交代が可能な二大政党制に近づきつつあるのでしょうか。あるいは、憲法改正による首相公選制が望ましいのでしょうか。国民的な議論をみてみたいものです。



  2003年10月中旬:
 (承前)その後、佐藤内閣時に沖縄が返還されることも、よく知られています。だからといって、そのような沖縄返還が自明であったことにはならないでしょう。

 歴史をみる際には、必然性や不可避性という思い込みに陥りやすいものです。しかし、それは現代という高みから、過去を見下ろしたものにすぎません。後知恵といってもよいでしょう。さらに、そのような歴史観は、現在をみる上でも、無意識のうちに影を落とします。

 歴史をながめる場合には、結果だけでなく、その過程にも目を向けたいものですね。



  2003年10月上旬:
  ロバート・エルドリッヂ『沖縄問題の起源』(名古屋大学出版会)について、著者を本学にお招きした上で、大学院生などと討論する機会がありました。

 これとの関連で想起させられるのは、一般に、戦後の日本外交が単なる対米追従とみなされがちなことです。しかし、そのような場合、基礎となる史料や研究書はあまり参照されないうようです。対米追従にすぎないと嘆くのは、基礎文献を参照してからでも遅くはありません。

 同書によれば、吉田茂や外務省、さらには「天皇メッセージ」などが相当な役割を果たし、沖縄の潜在主権を引き出していったとされるようです。そのような観点から、アメリカ人の著者は、日本外交を評価しています。また、沖縄問題をめぐるアメリカ側政策決定者の多様性を知るだけでも、一読の価値はあるのでしょう。(つづく)




 2003年9月下旬:

 拙稿「東アジア国際政治史研究の可能性」(『歴史学研究』第779号)の抜刷を発送しました。部数が少ないため、同稿に引用させていただいた方などを中心としています。以前、拙稿「ロンドン海軍軍縮会議と日米関係」をお送りした方には、今回あまりお配りできませんでした。



  2003年9月中旬:
 拙稿「ロンドン海軍軍縮会議と日米関係―キャッスル駐日米国大使の眼差し―」(『史学雑誌』第112編第7号)の抜刷を発送しました。その際に、ごく一部の方には、雑文「幣原没後」(『創文』第454号)を冊子ごと同封させていただきました。



  2003年9月上旬:
 拙稿「東アジア国際政治史研究の可能性」が第779号の『歴史学研究』に掲載されました。小特集「近現代東アジアにおける中華民国」に寄せたものです。拙稿はともかく、その前後の論文には、一読の価値があります。

 小特集に向けた会合などを通じて、中国史家のお話しを拝聴できたのも幸いでした。このような機会は、意外に少ないのではないかという印象です。それだけに、小特集を企画して下さった方々にも、深謝の意を表したいと思います。



  2003年8月下旬:
 野党合併への動向がいささか気になっています。合併の内実は、民主党による自由党の吸収といってよいのでしょう。

 それにしても、小沢一郎氏は随分と冴えなくなってしまったようにみえます。自民党を割って新生党の代表幹事に就任したのが、ちょうど10年前でした。その新生党に日本新党、公明党、民主党を加えて新進党を結成した頃が絶頂期でしたでしょうか。対外政策では、華々しく「普通の国」を掲げました。

 しかし、やがて羽田孜氏や旧公明党グループと離反し、小沢氏の勢力はやせ細っていきます。新進党の解党を決めたのも小沢氏でした。今回の民主党と自由党の合併によって、「小沢の乱」ともいうべきものは一段落するのでしょうか。改めて両党の合意文書を読んでみると、政策やマニフェストは民主党のものを継承すると簡単に記されているに過ぎません。

 もっとも、小沢勢力の衰退とは裏腹に、「普通の国」という議論は浸透していった感があります。イラク特措法の経緯を想起すれば分かるように、「普通の国」という理念は、むしろ自民党の側に咀嚼されたといえそうです。総選挙に勝つためとはいえ、イラク特措法に反対した民主党に小沢氏が吸収されるというのは、何とも皮肉なめぐり合わせといえるでしょう。

 与野党間における選挙の争点は何になるのでしょうか。政党名からして、自由党と民主党が合併して自由民主党と争うというのは、対抗軸がみえにくいようです。村山内閣の下で社会党が日米安保の容認に踏み切った頃から、内外政における与野党間の差異は分かりにくくなっています。

 それでもやはり、次の総選挙で最大の争点は、経済政策になるのでしょうか。この機会に、是非とも対外政策も十分に議論して欲しいものです。安易な類推は禁物ですが、戦前の政党政治は対外政策への統制と国民の信頼を失うことから崩壊していったという経緯もあります。

 また、所詮アメリカに追従するしかないのかという無力感がこれ以上広まっていくことも危険に思えます。だからといって、日米安保体制からの離脱や核武装が有力な選択肢だとも到底考えられません。

 強いていえば、外交面における民主党の看板は、国連中心主義になるのでしょうか。しかし、国連中心主義とは岸内閣以来、自民党も唱えてきたことです。そこに生命を吹き込むには、国連改革案などを含む青写真を提示せねばならないはずです。最大の難関は、国連中心主義と対米協調が抵触した際の処方箋でしょうか。

 「普通の国」と並ぶ小沢氏のもう一つの目標は、二大政党制でありました。ですが、細川内閣の選挙制度改革が中途半端に終わったためもあり、こちらは遅々としています。無党派層という言葉が象徴するように、国民の政治離れも深刻です。

 今度の総選挙を前に民主党と自由党が合併し、社民党や共産党が苦戦していることは、政権交代を可能とする二大政党制への好機といえます。しかし、そのためには、野党間における本格的な政策の詰めが欠かせません。野党とは本来、新たなる政策の土俵を築き、政権交代の素地を養っていくはずのものです。

 来るべき総選挙に向けて、分かりやすく対抗軸が示されることを願いたいものです。



  2003年8月中旬:
 拙稿「ロンドン海軍軍縮会議と日米関係―キャッスル駐日米国大使の眼差し―」が、『史学雑誌』第112編第7号に掲載されました。幣原喜重郎外相、吉田茂外務次官、キャッスル駐日米国大使の3者関係を軸に、ロンドン会議を論じたものです。

 また、同号では、拙編『満州事変と重光駐華公使報告書―外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて―』(日本図書センター、2002年)の新刊紹介もしていただき、大変感謝しております。



  2003年8月上旬:
 ようやく前期分の採点を終えました。前期は、ここ数年で最も忙しい時期でした。

 多忙の際に時間を有効に使うには、朝が大事だといわれます。ですが、大学の仕事を終えてから深夜まで原稿を書いていたりすると、朝が一番つらいということになりがちです。

 研究室でじっくりと文献を読み、週末には研究会や学会に出席する。そんな当たり前の研究生活が、難しくなりつつあるようです。



  2003年7月下旬:
 拙稿「東アジア国際政治史研究の可能性」の校正を終えました。『歴史学研究』9月号の特集「近現代東アジアにおける中華民国」に寄せたものです。私の担当は、日中関係でした。



  2003年7月中旬:
 拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)が第3刷になりました。今回も、数カ所を訂正してあります。



  2003年7月上旬:
 雑文「幣原没後」が『創文』第454号に掲載されました。抜刷はありませんので、研究会の際にでも冊子をお配りしたいと思います。



  2003年6月下旬:
 学部創設10周年に、下記のような拙文を寄せました。

「本学に赴任してから1カ月あまりが過ぎました。総合政策学部には何かと積極的な学生が多いようで、その勢いにしばしば圧倒されています。また、実学色の強い学部というのも大きな特徴のようです。 

 そんな戸惑いもあり、先日、3つの講義科目でアンケートを実施してみました。学生のニーズを把握するためです。アンケート結果をみると、いろいろと思案させられます。とりわけ困惑してしまうのは、回答内容が二分されるような場合です。 

 例えば、外交史のアンケートでは、「歴史を勉強してこなかったので、あまり脱線しないで欲しい」という意見が少なくありませんでした。しかし同時に、「他では聴けないような話しをして欲しい」という意見も多いのです。 

 学際的な学部だけに、どの程度の基礎知識があり、どの分野に比重を置くかといったことに、個人差が大きいためかもしれません。上記のような場合には、アウトラインをおさえつつも、専門家でなければ知り得ないような内容をちりばめていくべきなのでしょう。いずれにせよ、少しずつでも授業内容を改善していきたいと考えています。 

 なお、大学院でも、3、4名の院生を指導させていただいています。内部進学と外部との比率は、半々というところでしょうか。教員と学生の距離が近いという良き伝統は、大学院でも同じのようです。」


 2003年6月中旬:
 拙稿「幣原没後」と題する雑文の校正を終えました。『創文』6月号に掲載予定です。エッセー風のものとしては、『書斎の窓』以来となります。


  2003年6月上旬:
 拙稿「ロンドン海軍軍縮会議と日米関係―キャッスル駐日米国大使の眼差し―」の再校を終えました。研究ノートとして、『史学雑誌』第112編第7号に掲載予定です。

 ロンドン会議期の日米関係について、キャッスル駐日米国大使と幣原喜重郎外相、および吉田茂外務次官の3者関係を軸に論じてあります。


  2003年5月下旬:
 ProQuestの新聞データベースをトライアルしてみました。以前、国会図書館でNew York Times紙をマイクロフィルムでみていた頃とは、隔世の感があります。また、Washington Post紙に至っては、おろらく、国内で戦前のものを揃えているところはなものと思います。

 その点、上記のデータベースは、古い英字新聞などを調べるのに便利です。もっとも、大学図書館などで過去の新聞データベースまで契約しているところは、ほとんどないようです。



 2003年5月中旬:
 学部や大学院のゼミというのは、学生さんの性格が表れるようです。予習を十分にしていてもなかなか発言しない方もいれば、さほど予備知識がなくても自分の関心や体験に引き付けて上手に話す方もいます。

 私の場合、ゼミでは3つのコメントを用意するように勧めていますが、肝心なのは、議論の流れの中で主体的に発言する勇気だと思います。こちらから当てないようにしているのは、指名されるのを待つようになってしまうためです。


 2003年5月上旬:
 今年度は4つのキャンパスで教えているため、電車での移動時間が長くなっています。

かつて日本を訪れた外国人の多くは、満員電車でも読書を欠かさない日本人の勉強ぶりに驚かされたそうです。

 しかし今では、車中の主役は携帯電話になってしまいました。


  2003年4月下旬:
 対イラク戦争は、少なくとも軍事的にはアメリカの圧勝に終わりました。そのことをいかに評するのかは人それぞれでしょうが、アメリカの底力を見せつけられたと感じた方も多いのではないかと思います。

もっとも、アメリカの威力というのは、軍事力に限られるわけではありません。知的世界での一極集中は、軍事力のそれをはるかに上まわっているはずです。

例えば、あえてアメリカを避け、他の英語圏に留学したとしましょう。めでたく博士論文を完成させて、英語での刊行を検討する場合には、アメリカの市場にどれだけ浸透しそうかが審査基準の1つになるそうです。

 アメリカとどのようにつき合い、日本が主体的に発言していくのかという命題は、何も政治やジャーナリズムの世界に限られないようです。


  2003年4月中旬:
 日中関係史研究の史学史的考察というテーマで、論文を脱稿しました。ある雑誌の民国史研究特集によるものです。刊行は秋頃になるそうです。その関連で、フェアバンク『中国回想録』(みすず書房)などを再読してみました。


  2003年4月上旬:
  中央大学総合政策学部に赴任しました。慣れない講義科目の準備や研究室の整頓に追われています。大学院も担当予定です。

 なお、本ホームページを学外から閲覧される場合には、原則として毎週月曜日に更新となります。


  2003年3月下旬:
 アジア歴史資料センターにて、今年度の仕事を終えました。


 2003年3月中旬
 3月末にて大学を移籍することになりました。この研究室にもう戻ることはないのかと思うと、見飽きたはずの風景にも愛着をおぼえます。


  2003年3月上旬:
 卒業生を送り出す季節になりました。国立大学で12年間を過ごした者としては、私立大学が相当程度にまで卒業生で支えられるということを実感します。


 
 2003年2月下旬:
 一般論としてですが、大学に就職すると多忙になり、かえって研究できなくなるという逆説があるようです。大学改革の波は、その傾向に拍車をかけています。これだけ時間が不足すると、自分自身の研究はもとより、読書の時間すら限られるようになってしまいます。
 
 そのため、著作を執筆する際には、読者が多忙であることを念頭におく必要があるかもしれません。読書に充てられる時間が少なければ、順序通りには読んでくれないからです。ご多忙の方であれば、まずは後書きから読み始め、次いで序論や結論に移るという順序になるのでしょう。
 
 だとすれば、本の最初と最後でインパクトを強くして読者を引き込み、間口を拡げないと、肝心の本論を開いてはもらえないということになります。本論のディーテールは何のためであり、分析視角がどのように新しく、結論はどこにあるのかといったことを、最初か最後で分かりやすく提示しておくべきなのでしょう。
 
 文体から書名にいたるまで、以前とは異なる意味で工夫が求められる時代になりつつあるようです。
 

 
 2003年2月中旬:
 拙稿「第2回日欧歴史教育会議」(『近現代東北アジア地域史研究会ニューズレター』、第14号、2002年、144-148頁)が公表されました。地味な会議の紹介文に過ぎないものです。
 
 近年、学問とはあまり関係のないところで多忙になっており、時間的な制約から、こうした紹介文を書くのもそろそろ止めなければいけないのだろうかと考え始めています。


 
 2003年2月上旬:
 ここ2、3年の間に、論文や著作を送っていただくことが増えてきました。ありがたいことです。
 
 できるだけ拝読した上で返礼するようにしていますが、刊行のペースは早まりつつあり、しばしば読み切れなくなってしまいそうになります。しかし、送られてこようとこまいと、重要な文献を読まなければ当然、学界の動向にはついて行けなくなります。
 
 そんな時には、研究とは終わりのないマラソンのようなものだろうか、という気になります。先頭集団にはついて行くだけで大変ですが、うっかり脱落してしまうと、まず第一線には復帰できなくなるからです。

 

 
 2003年1月下旬:
 早稲田大学にて、「対抗と提携の間―世紀を越えた日中関係―」というテーマの国際会議が開催されました。共通論題は、「汪兆銘政権下の日中関係」でした。
 
 私は自由論題として、拙編『満州事変と重光駐華公使報告書―外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて―』(日本図書センター、2002年)の内容を報告させていただきました。
 

 
 2003年1月中旬:
 毎年恒例ですが、年末年始に書店へ足を運ぶと、『○○年、日本経済はこうなる』式の本が平積みになっているのをみかけます。こうした本が注目されるのは、長引く不況のためでもあるのでしょう。
 
 経済の低迷が続くと、とかく内向きになりがちです。近年、地方公務員に憧れる学生が増えているのも当然でしょう。内向きになるのはやむを得ないにしても、「経済が逼迫しているのだから国際貢献どころではない」と考えるような傾向が強まりつつあるとすれば、やや短絡的かもしれません。日本が資源のない島国である以上、その存立が対外関係に依存していることは、食卓ひとつをみても明らかです。
 
 あらゆる国家は盛衰から自由ではないのですから、混迷の時代にこそ、国力と平和を維持し存在感を示すような外交の在り方に思いをはせてみたいものです。そういえば、かつて帝国日本の崩壊後には、戦後賠償を経済進出に結び付けるような発想がありました。
 

 
 2003年1月上旬:
 元旦に「しっかりとした研究を残そう」と思うようになってから、早いもので十数年が過ぎました。当初は何も分からず無我夢中でやってきましたが、優れた研究とは何なのか、おぼろげながら分かりかけてきたような気がしています。一言でいえば、「普遍性、独自性、文章力」ということでしょうか。
 
 ここでいう普遍性とは、周辺領域の研究者などを含めて、多くの方々に重要性を認めていただけるような分野に問題を設定していることです。とっかかりは小さな事でも、それをどこまで一般化できているかということでもあります。
 
 また、独自性には解釈と史料の両面があるはずです。どちらか一方が欠けても、影響力は半減するでしょう。
 
 文章力にも2つの面があります。つまり、文章自体の上手さと、全体を構成する力です。啓蒙書に文章力が求められるのは当然ですが、専門書でも相当に重要です。独り善がりで下手な文章だと、いかに内容が良くても、通読してはもらえないと考えるべきでしょう。
 
 これらはすべて、自戒にほかなりません。研究者を志した以上、だれもが不可欠だと認めざるを得ないような分野において、新らしい学界の基準を1つぐらいは築いてみたいものです。
 

 
 2002年12月下旬:
 今年1年を振り返ると、対外関係では韓国や北朝鮮との間で進展があった年でした。北朝鮮との関係は現在でも流動的ですが、1つだけハイライトを挙げるとすれば、9月に史上初の日朝首脳会談が開催されたことになるのでしょう。北朝鮮政府からは、拉致問題での安否確認と謝罪がなされ、核査察受け入れやミサイル発射凍結無期延長、不審船取り締まりといった安全保障でも成果があったようです。
 
 一方、韓国との関係では、ワールドカップ日韓共催がありました。もっとも、ワールドカップでかえって韓国が遠のいたと感じた方もいたようです。韓国では共催という意識があまりなく、スタジアムでは日本の対戦相手を露骨に応援する光景すらみられたというのです。ですが、過去の経緯に鑑みれば、韓国人が突如として日本代表を応援してくれるとは考えにくかったはずです。
 
 だからといって、日韓関係の将来を過度に悲観することもないように思います。そもそも、日韓両国が協力して何か1つのことを成し遂げるなど、歴史上ほとんど空前のことなのですから。後年、「やはりワールドカップ共催を節目に日韓関係が深化していたのだ」と思える日が訪れるか否かは、むしろ今後にかかっているのでしょうね。

 

 
 2002年12月上旬:
 本年も残りわずかとなりました。
 今年刊行された学術書では、武田知己『重光葵と戦後政治』(吉川弘文館)、樋口秀実『日本海軍から見た日中関係史研究』(芙蓉書房出版)、簑原俊洋『排日移民法と日米関係―「埴原書簡」の真相とその「重大なる結果」―』(岩波書店)などが印象に残っています。
 30代前半と非常にお若い方々の活躍が目立った年でもありました。少し残念なのは、こうした本格的な学術書が、新聞などの書評であまり取り上げられないことです。
 それにしても、1年を振り返ろうとすると学術書が思い起されるのは、研究者の悪癖ともいうべきでしょうか。

 

 
 2002年11月下旬:
 ようやく拙編『満州事変と重光駐華公使報告書―外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて―』(日本図書センター、2002年)を発送し終えました。
 このような史料に対する評価は様々でしょう。解題にも記しておいたように、重光報告書がリットン調査団への抗弁を想定しているだけに、全てを鵜呑みにはできません。
 だからといって、重光報告書が帝国主義の産物としてのみ評価されるとすれば、やや早計かもしれません。日中の衝突を未然に防ごうと現地で奮闘したのは、他ならぬ重光駐華公使でありました。
 そもそも、自国の行為を正当化するのは、外交官の責務でもあります。その際には、国際法が有力な手段となるわけです。このため重光報告書は、条約的根拠からの分析という視角を提供してくれます。しばしば研究者の盲点となる部分だろうと思います。
 いずれにせよ、これによって助手時代からの宿題を終えたことになります。正誤表はこちらに掲載しておきました。その他に何かお気付きの点がありましたら、是非とも御一報下さい。
 
  【付記】
拙編著を謹呈させていただいた先生方から、同書へのコメントを数通いただきました。礼状ということを差し引いても、重光に関心のある方は多いと思われます。世代別でいうと、この分野を長年研究されてきた方々には、「重光というのは実に分かりにくい」という印象のようです。また、戦後外交から研究を始めた若手の研究者からは、「重光を足掛かりに戦前・戦後の連続―非連続を一度は考えてみたい」といったご感想が少なくありませんでした。

 

 
 2002年11月中旬:
 久しぶりに神戸に行って来ました。大震災から8年近くが過ぎ、傷痕を目の当たりにすることは稀になったようです。
 

 
 2002年11月上旬:
 「戦間期の東アジア国際政治」研究会が2年以上を経過しました。当初は半年も続けば上出来だろうと思っていたのですが、意外に多くの方が参加して下さっています。といっても、毎回10名前後ですが、この分野もまだ捨てたものではないようです。唯一残念なのは、遠方の方が報告して下さる際に、旅費をお支払いできないことです。
 

 
 2002年10月下旬:
 拙編『満州事変と重光駐華公使報告書―外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて―』(日本図書センター、2002年)が刊行されました。史料集だけに、ミスがないことを祈るような気持ちです。
 

 
 2002年10月中旬:
 拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)に対する後藤春美先生の書評が、『史学雑誌』(第111編第9号)に掲載されました。日英関係を長年研究された方ならではのもので、大変感謝しております。
 それにしても、自著に対する書評を読むというのは、出来の悪い学生が成績表をこっそり開いてみるようなもので、心臓には悪そうです。
 

 
 2002年10月上旬:
 『外交史料館報』の第16号が送られてきました。特に惹き付けられたのは、昨年来、外交史料館で公開されている「茗荷谷研修所旧蔵記録」に関する記事でした。
 この外務省研修所は占領期に文京区の茗荷谷に設置されたもので、行き場を失った興亜院、大東亜省、拓務省、内務省などの文書が運び込まれたようです。これだけ大部の文書が他の省から移管されて公開に至るのは、「海軍省等移管南方軍政関係史料」(『外交史料館報』、第6号、1993年を参照)以来でしょうか。
 なお、外務省研修所は既に相模原市へ移されており、残された敷地と建物は拓殖大学文京キャンパスの一角となっています。
 

 
 2002年9月下旬(その2):
 拙編『満州事変と重光駐華公使報告書――外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて』(日本図書センター、2002年)の念校を終えました。10月25日に刊行予定です。
 

 
 2002年9月下旬:
 NHKに「その時歴史が動いた」という番組があります。映像を豊富に交えながら歴史の決定的瞬間を振り返ろうというもので、私も時々みています。もっとも、ドキュメンタリー物では、しばしばナレーションとは異なる映像が転用されます。当然のことながら、制作者の描くシナリオの全てが映像で見つかるわけではないからです。
 この点では、「その時歴史が動いた」も例外ではないようです。例えば、9月18日に放映された「ヒトラー情報 日本を揺るがす〜『真珠湾』へのもう一つの道〜」には、1941年12月にドイツ軍がロシア戦線から撤退する場面があります。しかし、番組ホームページによれば、この映像は1943年以降のものであり、1941年の段階ではドイツ兵は「きちんとした防寒服を装備していません」が、「ここではイメージを優先して使用しております」といいます。このような「イメージ優先」が少なくとも3箇所に使われているそうです。
 

 
 2002年9月中旬(その2):
 拙編『満州事変と重光駐華公使報告書――外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて』(日本図書センター、2002年)の再校をようやく提出しました。助手時代からの宿題を終えたような感じです。
 10月下旬に刊行予定ですが、実際にはもう少し遅れるかもしれません。出版状況が厳しいなかを、2,800円と安価にして下さっています。
 

 
 2002年9月中旬:
 北朝鮮との歴史的会談が目前に迫っています。会談自体もさることながら、マスコミの報道が少しばかり気掛かりです。というのも、拉致問題に焦点を絞りすぎており、しかも性急に成果を求めるような論調のものが少なくないためです。これを真に受けると、拉致問題が直ちに解決されなければ小泉訪朝は失敗だったと受け止められかねません。
 

 
 2002年9月上旬:
 拙稿「幣原喜重郎と20世紀の日本」(『書斎の窓』、第517号、2002年、19-23頁)が公表されました。幣原喜重郎の生涯をわずか5頁に凝縮した小品に過ぎないものです。ちなみに、『書斎の窓』は有斐閣の広報誌です。同稿には抜刷がないため、お配りすることができません。
 

 
 2002年8月下旬:
 昨年度のゼミ生が書いた卒論を読み返してみました。概していえば、卒論としては悪くない水準だったと思います。時代を反映してか、論争的なテーマに敢えて取り組もうとする方もいました。そのようなテーマを選んだ場合、どんなに文献を読んでも腑に落ちないことがあるようです。それもそのはずで、真実は1つと割り切れないことが歴史研究では少なくないのです。史料状況によっては、最終的な結論を留保せざるを得ないこともあるでしょう。同じ謎解きのようにみえても、推理小説とはここが異なるのですね。
 

 
 2002年8月中旬:
 とあるサッカー選手の欧州移籍が話題になっているようです。ワールドカップが日本で開催されたこともあり、ファンタジスタという言葉は市民権を得たようです。ここでいうファンタジスタとは、想像力あふれるプレーによって、観客はもとより相手チームをも魅了してしまうような選手のことを指すのでしょう。
 この言葉を耳にすると、ふと「昨今の学界にはどんなファンタジスタがいるのかな」と思ってしまうことがあります。かつてであれば、丸山真男や岡義武の作品が、研究分野を越えて多くの人々を魅了したことでしょう。丸山真男『現代政治の思想と行動』(未來社、1964年)は、私の持っている1989年版で第139刷となっています。また、岡義武『山県有朋』(岩波書店、1958年)は、新書でありながら評伝の最高傑作といわれます。
 しかし、研究領域がますます細分化される現代では、この本であれば誰もが読んでいるということが稀になりました。学界にはファンタジスタが生まれにくくなっているのかもしれません。
 

 
 2002年8月上旬:
 齢を重ねるごとに時間の経過は早くなるといわれます。日頃、内外の雑務に追われてばかりいる間は、そんなことを感じる余裕もないでしょう。ですが、夏休みのようにまとまった時間が得られると、「そういえば学生の頃はのんびりしていたものだ」と思い返します。最初の著作に10年かかったことを思えば、研究書をあと何冊書けるのだろうかと考えてしまいます。人生の時間が無限にあるはずもなく、研究者としての時間はさらに限られているのですね。
 

 
 2002年7月下旬:
 『東洋協会調査資料』全7巻(日本図書センターより近刊)のパンフレットに下記のような推薦文を寄せました。
 
 「華北分離工作が本格化する直前の昭和10年4月、拓殖大学の経営母体である社団法人東洋協会は調査部を新設した。以来、東洋協会調査部は同年6月から昭和18年5月までの8年間、立て続けに全51輯の調査資料を刊行している。資料の刊行された昭和10年代は紛れもなく大きな岐路となる時代であり、そこには外務省や陸軍当局をはじめとして、多彩な情報源が活用されている。
 注目すべきは調査対象の包括性であろう。中国の内外政や国防・経済はもとより、満州国、朝鮮、台湾、モンゴル、ソ連、海南島といった地域が網羅されている。もう1つの特徴は速報性である。一例を挙げれば、第26輯『蘆溝橋事件の経過概要』は事件発生の直後に刊行されており、臨場感にあふれる。
 そのためもあり、全ての資料と同様、『東洋協会調査資料』にも歴史的な限界があるのは無理からぬことであろう。しかしそれだけに、時局認識を生々しく伝えてくれる利点は大きい。この点がしばしば研究者の盲点となるからである。巻末の「東洋時事日誌」も有益となる。」
 

 
 2002年7月中旬:
 国際教育情報センター主催の第2回日欧歴史教育会議に参加してきました。今回対象となった時期は、19世紀後半から第1次世界大戦まででした。会議ではヨーロッパから歴史家や教育関係者を5、6名ほどお招きし、日本側からは政治史や経済史といった各分野の専門家が報告しました。その上で、諸外国での歴史教育や教科書の記述を含めて、日本の姿をどのように世界に伝えていくべきかといったことが話し合われました。
 私に割り当てられた課題は、当該期の東アジア国際政治でした。私としては、今まで研究したことのない時期だけに拝辞したかったのですが、最終的には引き受けさせていただきました。当該期に限らず外交史がいかに下火となっており、また、自分の研究領域が歴史研究の全体からみればいかにちっぽけなものかということを再認識できただけでも、出席した甲斐がありました。
 

 
 2002年7月上旬:
 拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)の第2刷が、ようやく少しずつ出回るようになったようです。
 

 
 2002年6月下旬:
 「幣原喜重郎と20世紀の日本」と題する小品を脱稿しました。有斐閣のPR誌『書斎の窓』(2002年9月号)に掲載予定です。
 

 
 2002年6月中旬:
 憲政記念館にて、特別展「吉田茂とその時代―サンフランシスコ講和条約発効50年―」を見てきました。
 

 
 2002年6月上旬:
 幣原喜重郎に関する小さなエッセーを書いています。
 

 
 2002年5月下旬(その2):
 拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)の第2刷が発行されました。拙著にコメントして下さった方々に、重ねて御礼申し上げます。それらを踏まえて少なからず加筆修正しましたが、全面的な改訂には至っておりません。今後も、何かお気づきの点がおありでしたら、是非お知らせ下さい。
 

 
 2002年5月下旬:
 國學院大学文学部の国史学会に参加してきました。伝統ある学会にふさわしく、質の高い報告が多かったようです。私自身も近代史部会にて、「昭和5、6年の対外関係」と題して報告させていただきました。
 

 
 2002年5月中旬:
 松本記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』(重光駐支公使報告書)」(外務省外交史料館所蔵)を題材とした編著『満州事変と重光駐華公使報告書――外務省記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』」に寄せて』(仮題)の入稿に向けて、最終的な調整を行っています。秋頃、日本図書センターより刊行予定です。
 

 
 2002年5月上旬(その2):
 『外交フォーラム』第167号(2002年6月)に酒井哲哉先生が拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)の書評を執筆して下さいました。
 

 
 2002年5月上旬:
 日ソ外交史研究で知られるボリス・スラヴィンスキー氏の訃報が御家族より寄せられました。3年前にロシア外務省外交史料館で偶然お会いして以来、留日中には拓殖大学での研究会に御参加いただくなどしていただけに、本当に残念です。最後に来日された際、1930年代から40年代の日ソ外交史をもう一度論じ直してみたいと熱っぽく語っていらしたのが昨日のことのようです。
 また、奉ソ戦争と呼ばれる1929年の中ソ紛争にも関心を示されており、拙著の該当部分を知人にロシア語訳してもらった上でお送りしたこともありました。日本の研究者の力になりたいので、必要があれば遠慮なく紹介して欲しいともおっしゃっていました。
 なお、3年前にロシア外務省外交史料館でお会いした頃の様子については、拙稿 「ロシア対外政策公文書館を訪れて」(『近現代東北アジア地域史研究会ニューズレター』、第11号、1999年)13-17頁、で少しばかり言及したことがあります。
 

 
 2002年4月下旬:
 つい先日、新入生のオリエンテーション・キャンプに泊まり込みで行って来たと思っていたら、早くもゴールデン・ウィークの季節になってしまいました。授業やゼミでは、導入部分を終えつつあります。毎年この時期になると、活字離れが進む中で、どうすれば学生さん達に興味をもってもらえるのかを考えさせられます。その一方で、インターネットや漫画といったメディアの影響力は、無視できないところまできているようです。これらの多くは扇情的で、手軽さもあって読書習慣のない学生には浸透しやすいようです。
 こうしたことは、教育や研究のあり方に再考を促しているようにも思えます。ホームページを作成しようと思った契機の一つもここにありました。
 

 
 2002年4月中旬:
 「戦間期の東アジア国際政治」研究会にて報告させていただきました。論題を「1930年代初頭の日米中関係」としましたが、実質はロンドン海軍軍縮会議と満州事変について、限られた視角から再考したものに過ぎません。新学期でお忙しい中を御参加下さいました方々に御礼申し上げます。懐かしい方や初めての方ともお会いすることができ、刺激になりました。報告の内容に関しては、何らかの形で活字にしていければと思っております。
 

 
 2002年4月上旬:
 拙稿「重光駐華公使報告書」(『軍事史学』第37巻第2・3号、2001年)247-259頁にて御紹介させていただいた松本記録「支那ノ対外政策関係雑纂『革命外交』(重光駐支公使報告書)」(外務省外交史料館所蔵)の刊行を検討しています。既によく知られた史料ですが、200字詰め原稿用紙で686枚という分量のため、通読されることは稀だったように思われます。
 この重光報告書については、4月20日の「戦間期の東アジア国際政治」研究会で御報告すべく準備を進めています。もっとも、不慣れなため、作業は遅れております。同研究会ではその他、ロンドン海軍軍縮会議についてもお話しさせていただくつもりですが、新学期も始まり少々焦り気味です。
 

 
 2002年3月下旬:
 拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)にて、吉田茂賞を受賞しました。思いがけない幸運に恵まれることができ、大変に感謝しております。同書は増刷に向けて、加筆修正を済ませてあります。この間、拙著にコメントをお寄せ下さった方々に御礼申し上げます。また何かお気づきの点がおありでしたら、御一報下されば幸いです。
 

 
 2002年3月中旬:
 ある研究会で、中国の先生方数名をお招きし、中国における研究動向やその背景に関してお話ししていただきました。日本との研究方法の違いなど、歴史研究を考える上で有意義でした。
 

 
 2002年3月上旬:
 同志社大学の研究会に出席させていただきました。太平洋戦争前の日本による暗号解読に関する刺激的な報告を拝聴しました。昨年12月頃から毎日新聞、神戸新聞Japan Times、The Los Angeles Timesなどで取り上げられていたものを発展させた内容です。開戦前に日本は情報戦で負けていたという理解に一石を投じるものとなりそうです。
 

 
 2002年2月下旬:
 アジア歴史資料センターにて、委員の仕事をさせていただいています。それにしても、インターネットで原文書の画像が閲覧できるというのは画期的ですね。かつて私が大学院生の頃、なけなしのお金をはたいてマイクロフィルムで購入したような史料がダウンロードできてしまい、隔世の感です。同センターではモニターを募集中です。
 

 
 2002年2月上旬:
 拙稿「カリフォルニア大学バークレー校主催シンポジウム“Treaty-Bound: Japanese Politics and International Diplomacy, 1853-Present”」(『近現代東北アジア地域史研究会ニューズレター』、第13号、2001年、108-110頁)が公表されました。拙稿は、2001年11月にカリフォルニア大学バークレー校にて開催されたシンポジウムの参加記録です。
 シンポジウムはサンフランシスコ講和50周年を契機として、幕末から現代に至る日本外交史の主要条約を問い直そうとしたものです。なお、同誌には抜刷がないため、謹呈できませんでした。
 

 
 2002年1月下旬:
 拓殖大学政治経済研究所の公開講座を実施しました。講師として、中国国際問題研究所の晋林波氏をお招きし、「中国人の日本観」という論題で講演していただきました。一般の方を中心に、40名から50名程度の御参加をいただきました。有難いことです。講演の模様は、いずれ紀要に掲載を予定しております。
 

 
 2002年1月中旬:
 三宅正樹『政軍関係研究』(芦書房、2001年)を拝読させていただきました。私がかつて1990年代前半に研究を開始した頃、同書に収録されたような論文を複写して読んだことがあります。今回御著書としてまとめ上げられたものを拝見しますと、旧稿に大幅に加筆されており、丹念に冷戦後の学説状況にまで論及されていることに感服させられます。
 1930年代の日本を特異な経験とするのではなく、むしろ国際比較を可能にする視点として、政軍関係論は有効なのでしょう。発展途上国を理論の射程内に収める点においても、例えばファシズム論などより、適用範囲は広いといえそうです。
 それにしても、我が国では三宅先生が先鞭をつけられた政軍関係論が、今後どのように発展し得るのかは少々気掛かりです。いずれにせよ、ここ数年で論文集を数冊まとめられており、頭の下がる思いです。
 

 
 2002年1月上旬:
 後期の授業をすべて終えました。外交史や国際政治史という古くさい分野と、新しい感覚を持つ学生との距離をいかに克服すべきなのか、いろいろと考えさせられました。
 また、休みを利用して、ゼミ生の卒論を読みました。内容的には優れたものが少なくないのですが、卒論を執筆する学生自体は減りつつあることが残念です。
 

 
 2001年12月下旬:
 黒沢文貴、斎藤聖二、櫻井良樹編『国際環境のなかの近代日本』(芙蓉書房出版、2001年)の書評執筆に苦戦しています。せめて、内容紹介だけでもできればと考えています。
 

 
 2001年12月上旬:
 何人かの方々に、拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)へのコメントを送っていただきました。ありがとうございます。本というのは、どんな方が読んでくれているか分からないものですね。
 

 
 2001年11月下旬:
 拙稿「『戦間前期』東アジア国際政治史文献目録―拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交1918-1931』追補―」(『拓殖大学論集 人文・自然・人間科学研究』、第6号、2001年)、65-94頁、が公表されました。
 といっても、拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交1918-1931』(有斐閣、2001年)の文献目録に過ぎないものです。
 出版状況が悪化しつつある昨今、学術書に完全な文献目録を掲載することは難しいようです。拙著も例外ではありませんでしたので、文献目録を紀要に掲載させていただきました。
 

 
 2001年11月中旬:
 アメリカに行って来ました。カリフォルニア大学バークレー校にて、シンポジウムに参加するためです。シンポジウムは、"Treaty-Bound: Japanese Politics and International Diplomacy, 1853-Present"と題されました。サンフランシスコ講和会議50周年に際して、日本外交の足跡を問い直そうという企画だったようです。私がどれだけ貢献できたかは疑問ですが。Edward Thomas Williams Papers, Bancroft Library, University of California at Berkeley などもみてきました。
 

 
 2001年11月上旬:
 新3年生を対象として、「ゼミナール・ガイド」を八王子キャンパスにて実施しました。
 拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)が刊行されました。
 

 
 2001年10月下旬:
 大阪と京都に出張して来ました。
 

 
 2001年10月中旬:
 文京キャンパスのオープン・キャンパスで、高校生の方々にお話しをさせていただきました。
 

 
 2001年10月上旬:
 『軍事史学 満州事変70周年特集号』(第37巻第2・3号)が刊行されました。拙稿「重光駐華公使報告書」が247-259頁に掲載されています。
 

 
 2001年9月:
 ようやく拙著『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』(有斐閣、2001年)の再校を終えました。10月下旬に刊行予定です。
 

 
 2001年8月:
 ゼミ合宿で箱根に行って来ました。
 

 
 2001年7月:
 米慶余主編、宋志勇、藏佩紅副主編『国際関係与東亜安全』(天津:天津人民出版社)が刊行されました。拙稿「中国革命外交的挫折―中東鉄路事件与国際政治(1929年)―」が294-308頁に掲載されています。
 

 
 2001年6月:
 伊藤隆編『日本近代史料情報機関設立の具体化に関する研究』(科学研究費補助金研究成果報告書)が刊行されました。第4章「『近代日本史料情報機関設立の具体化に関する研究』研究会速記録集」417-438頁に、政策研究大学院大学政策研究プロジェクトセンターにて2000年12月14日に行った近代日本史料研究会速記録が掲載されています。
 


 2001年5月:
 拙稿「戦間期イギリス外交の個人文書等について」(『拓殖大学論集 政治・経済・法律研究』第3巻第3号、59-67頁)が公表されました。
 

 
 2001年4月:
 拙稿「書評:三宅正樹著『ユーラシア外交史研究』」(『明治大学社会科学研究所紀要』第39巻第2号、405-409頁)が公表されました。
 

 
 2001年3月:
 1ヶ月間、台湾にて史料調査をしました。受入先の中央研究院近代史研究所には、大変お世話になりました。